暖冬とはいえ寒さ厳しき冬の季節も過ぎゆき、キャンパスの木々も芽吹き、桜のつぼみも膨らみ始めた今日この良き日に、学位記を授与される209名の皆様、ご修了まことにおめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。
また、本日、ご臨席を賜りましたご来賓の皆様、そして保護者の皆様、まことにありがとうございます。
ここしばらくの間に、日本の教育大学や教育学部は、大きく変化しました。本学でも、令和4年度には、専門職学位課程の入学定員が190名という国内で二番目の規模の教職大学院が設置され、修士課程は心理臨床のみで20名の入学定員となりました。この改革があって2年が経ちましたので、今日の日を迎える修了生の多くが令和4年度の改組で設置された新しい大学院の修了生ということになります。
学校教育法の第九十九条によれば、「大学院は、学術の理論及び応用を教授研究し、その深奥をきわめ、又は高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い、文化の進展に寄与することを目的とする」組織ですが、現在では、教育大学や教育学部の上に設置される大学院は、基本的には、教職大学院と呼ばれる専門職学位課程になっています。その課程では、教職の専門性に関する学識と能力を培うことが基本です。もちろん、本学では臨床心理の教育研究は修士課程で行っています。
さて、大学院もまた、社会の変化と無関係ではありません。近年著しい進歩を遂げたAIと結びついた情報機器などは、学校教育の在り方を大きく変化させました。新型コロナ禍での遠隔システムの活用は、学校に行かなくても教育が受けられるという時代の到来を感じさせるものですし、瞬時にさまざまな情報をえることができるネット環境は、情報の伝達を基本とするような教育に対しては、大きな異議申し立てになっているように思います。そうしたことも影響してのことでしょうか、近年では、知識伝達型の教育は、今や能力開発型の教育へと変化しつつあります。覚えることではなくて、考えることが中心の教育に変わり始めているのです。
先日、テレビ番組を見ていたら、「AIは敵か味方か」というテーマで、その道の専門家たちがそれぞれの意見を述べている様子が放映されていました。討論という形ではなくて、専門家の発言を映像で集めて編集した番組でしたが、中には、すべての労働がAIロボットに奪われるというような発言もありました。人間が労働を奪われれば、人間には収入を得る手段がなくなるということが述べられていましたが、しかし、人間が働かなくてもよい社会になれば、ベーシックインカムの制度を充実させて、基本的な収入は、国なり世界政府なりが保証するというやり方も可能になるのではないか、とその番組を見ていて私は思いました。現在の制度を前提に考えれば、恐ろしいことが起こるようにも見えますが、社会制度も同時に変革していくと考えれば、そうたいした問題ではないようにも思えるということです。しかし同時に、私たち人間の寿命も延びており、人生100年時代とも言われていますので、私たちがその年齢に達するまで生きがいを維持できるかどうかが問題であるように私は思います。生活が保障されて食べることに困らなかったとしても、場合によっては「もういいや」というような投げやりな気持ちになってしまう事態も起こりうるのではないかと思います。
今述べたことは、たとえばフランスのノーベル賞作家アルベール・カミュが『シーシュポスの神話』で考察しているような問題です。
シーシュポスの神話は次のようなお話です。
シーシュポスは、神を冒涜し、そして、神々の神であるゼウスから、山に大きな岩を押し上げるという罰を受けます。岩を背負い、ゴツゴツした斜面を登り、やっと頂上に着くと、岩は山の麓まで転げ落ちてしまう。シーシュポスは、再び、それを運ばなければなりません。神の呪いを受けて、無限に続くこの無益の努力を繰り返すのです。この罰を永遠に果たすことが、シーシュポスの運命です。
このお話は人間の人生を暗示しています。カミュは、この無意味な人生を肯定します。無意味な作業を肯定的に受け止めることで「すべてよし」とするのです。私が述べた「もういいや」という投げやりな気持ちを否定するのです。同様の発想は、ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの永劫回帰という思想の中にも見ることができます。この人生が無意味であり、それが繰り返されようとも、私はその人生をもう一度生き抜いてみせようという強い意志をもつことを説いているのです。
カミュも、ニーチェも、実存主義の思想家として知られています。カミュ自身は実存主義との関係を否定していますが、それでも、実存主義者としてくくられることが多いのです。実存主義という日本語は、現実存在あるいは真実存在という言葉から作られた造語で、英語ではexistentialismと表現されます。つまり、実存は、日常用語で言えば「存在」のことです。人間あるいは自分という一個の存在を大切に考えようとする思想です。私が主張したいのは、AIロボットが、すべての労働を担うような未来社会においては、それぞれの人間の生き方や生きがいや生き様が問われるだろうということです。
では、こうした未来社会において、教育はいったいどのようになっていくのでしょうか。AIロボットが、人間に代わってすべての労働を担えるようになれば、学校教育もAIロボットが代替するのではないかと私は思います。しかし、感情の機微などを伝えるには人間が教える方がよいと考える人たちは、独自にそうした学校を経営し始めるのではないかと思います。しかし、ベーシックインカムが保障されたとしても、それができるのは、豊かな経済力をもった階層の人たちだけではないかと考えます。
さて、あえて空想めいたことを述べました。大学院を修了される皆さんは、どんなふうに考えるでしょうか。私が言っていることが正しいなどと思う必要はまったくありません。皆さんは、大学院において深い学識と卓越した能力を培ったはずです。批判的思考でとらえてほしいと願っています。大学院に派遣された教員など一部の方を除いて、多くの修了生は、4月から、社会人としてのスタート地点に立ちます。これからは、今まで以上に、自分の頭で考え、判断し、行動しなければならないことが増えていきます。どうか、ときには相手の立場に立って耳を傾け、相手から学ぶという謙虚な姿勢も忘れずに、しかし、しっかりと自分の考えをもって、それぞれの場で職務に励んでください。
教職関係に就かない方々も、本学での教育に関係する学びは、役立つものと思います。教育に関する学びには、人間関係に関するものも含まれているからです。
最後に、修了生の皆様と、皆様を支えている保護者の皆様のますますのご健勝とご活躍を祈念し、告辞といたします。
令和6年3月19日
国立大学法人 上越教育大学長
林 泰成
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